pic
淡水を知ろう
歴史ある淡水
人物誌
自然の生態
淡水マップ

歴史ある淡水

●●●                                            

      

●●●

淡水は東南アジアの海と陸を繋ぐ中継地点であり、また、背後の大屯山は空からの際立つ道しるべにもなっています。そのため、今日に至るまでの7000年の間、途絶えることなく人々が淡水に移住し、漁業や狩猟、耕作という生活スタイルをおくっていました。

16世紀には、西洋諸国がアジアへの進出を開始し、立地の良い台湾に目をつけました。スペインはフィリピンの統治を確固たるものにした後、オランダ、イギリス、ポルトガルに対抗するため、真っ先に台湾北部を占領しました。1629年の秋、スペイン人は中国や日本に向けての貿易や布教の起点となるよう、サンドミンゴ城や教会を建造しました。

1641年、オランダは中日貿易路線がスペインに脅かされるのを恐れ、すぐさまスペイン人を追い払い、城を再建しました(現在の「紅毛城」)。彼らは、町に住む平埔族だけでなく、漢人も集めて開拓させ、硫黄、鹿皮、その他の物産の販売にも力を入れて、中国との貿易港として淡水を栄えさせました。1661年、鄭成功は東へ海を越え遠征に赴き、台湾南部のオランダ人を駆逐し、淡水も一時期だけ明鄭政権時代に入りました。 

日本時代が訪れる頃には、淡水は黄金時代を迎えました。しかし、河口に土砂が堆積して大型船舶の出入りが不便になり、加えて、日本人によって基隆港が着手されると、やはりその地位は基隆港に受け渡すこととなりました。日本によって水道の開通、港施設の強化、港の再建計画などが実施されたものの、淡水の運命を変えることはできず、やがて淡水の経済は農漁業が主になりました。しかし、日本政府がもたらした公共建設の強化や高度な行政効率は、淡水港の存続に大きく左右し、淡水は近隣の村や町の行政及び文化の中心となることができました。

戦後、淡水を再び開港するという噂も聞かれましたが、実現はしませんでした。
しかし、台北が大都市として発展するにつれ、淡水にも変化が訪れました。まず、この地の大学生たちが消費者としてこの地の経済を支え、後には北海岸観光レジャーの主要地となり、そうして淡水は起死回生を果たしたのでした。
 
pic
Home » 淡水まるごとガイド » 歴史ある淡水